恋の仕方なんて、知らない
「おじさん、おじさん・・・・・・虎徹さん」
やっと冷静さを取り戻して相手をみれば、目を閉じてぐったりとしていた。
それまでの熱が一気に冷めていくのが分かって、慌てて頬を軽く叩いて名前を呼ぶ
ものの反応もない。口元にそっと手を翳せば、穏やかな呼吸を感じる。
なんだ、飛んだだけか。
それが分かると、ほっと胸を撫で下ろし、中に埋まっているものをずるりと引き抜く。
一瞬、ん、と息を詰めるような反応を見せたが、たぶん反射だろう。目覚める様子はない。
装着しているゴムを、中身がこぼれないようにそっと外す。口を結んで、ティッシュで
包み、眠っている人にも着けられたそれを同様に外した。
処理を終えたところで、裸で眠るその人にそっと覆い被る。体重を掛けないように
だが、少しの隙間もできないように肌を密着させる。汗をかいているせいか、年の
割にはしっとりと濡れている肌が気持ちよかった。鼻先を相手の首筋に埋めて大きく
深呼吸をする。
普段おじさんおじさんとからかっているが、日系のせいか本人が言うような加齢臭は
感じられない。汗と、僅かに残ったフレグランスのほのかな香りがする位だ。
たぶん、目覚めたらすぐにシャワーを浴びてしまうから、今だけしか感じられない匂い。
こうやって抱きしめるのも、匂いを嗅ぐのも、繋いだ手の指先にキスをするのも、全部
おじさんが眠っている間だけだ。ほんの僅かな時間に許された触れ合い。
目が覚めたら、こんなこと出来るわけがない。
だって、身体だけの関係だから。
いつも口を開けば喧嘩していた。同じ能力のNEXTだが、それ以外の共通点はなく
むしろ全てにおいて相反している。無理矢理パートナーを組まされて、視界にはいる
だけでイラついて、距離を取りたくても上司命令でそんなことは出来ない。募る
苛立ちの中ふと相手が見せる優しさや温かさに、目が離せなくなっていた自分がいた。
今まで自分の生きてきた世界には存在しなかった、その不思議な人物にいつしか
惹かれていた。
溢れんばかりの父性で、色んなものを受け止める人だった。その右手で誰かの頭を
撫でるとき自分も同じようにして欲しかった。ある日、その左の薬指に光る指輪を
見つけて、嫉妬したこともあった。
自分の中に渦巻く感情が、好意なのか、それとも幼い頃に失った父親を求めるものなのか
分からなくなってきた。
後者ならまだいい。だが、前者であればーー?
その指輪が絶望的な未来を指している。
だから、ぶち壊して欲しかった。自分の中に芽生えた恋心を。
「抱いてもいいですか?」
軽い気持ちで聞いてみた。まるで、お茶でも誘うかのように。
これで向こうが気味悪がって断ってくれたら、それでこの感情が終わる。
もし、OKしたとしても、抱くだけ抱いて、落胆すればいい。
こんなものが欲しかったんじゃない、と。
意外にも返答は、OKだった。おじさんも、まるでコーヒー奢ってくれんのか?という
軽い感じで。
だから、遠慮なく抱けた。
愛情を確かめるとかそんな甘いものではなく、絶望を感じる為だけの残酷な行為として。
だが、結果は違った。
大丈夫だから、と言って苦しそうな中で見せた笑顔に泣きたくなった。
こちらの思惑に気付いているのか分からないが、互いに男性での経験はなくて、かなり
無茶をさせたのに、時々リードしながらも拒むことなく受け入れてくれた。今思えば
痛みを伴う好意だったのに、逆にこちらを気遣いながら受け入れてくれた。
落胆・・・出来たなら良かったのに。
来いよ、と言って広げた両手は身体だけじゃなく、心まで包み込んでくれる気がした。
笑ってくれるだけで嬉しくなる自分がいた。それが、決定打だった。
それからも、何かに理由を付けて抱いた。
身体だけの関係だ、と暗黙の了解で。
抱いた後、冷静になった自分にそう言い聞かせないと怖くなってきた。間違っても
事情後の雰囲気に流されて、その身体を抱いて言ってしまいそうになる。
『好きです、愛してます』と
それを防ぐためにも、一瞥することなくシャワーへと向かった。
起きていようと眠っていようと関係なく、さっさとその場から離れる。
たった一度だけ、掠れた声で名前を呼ばれたことがあった。
いつもの、「バニー」ではなく「バーナビー」と。そんなつもりはないはずなのに
そのかすかな声が求められているような気がして、振り返りそうになった。
だが、振り返るのが怖くて、振り返ってしまえば、そのまっすぐな瞳に捕らえられる
のが怖くて、ただ、無視することしかできなかった。
あの時、おじさんは何を想って僕の名を呼んだんだろう。
多分、一生、知ることはないだろうけれど。
どうしてあの人のことになると、こんなにも弱い人間になってしまったんだろうか。
復讐のためにヒーローになり、表向きは笑顔の仮面を張り付けて、裏ではウロボロスの
正体を追い、復讐の炎を燃やしていた。誰に頼ることなく、たった一人でここまで来たのに。
突然現れたその人は、簡単に土足で僕の領域に入り込んできて、僕のペースを乱し
望んでいないのに隣に立ってくれる。
僕が崩れそうになればきっと支えてくれるし、僕が泣きそうになればその肩を、胸を
きっと貸してくれるだろう。
それが、怖かった。
この人まで巻き込んでしまうのが嫌で、守りたいものが出来てしまったことが怖かった。
こんな自分が、誰かを愛したいなんて、間違っているのに。
先ほどまで自分にまとわりついていた汗や匂いが全て洗い落とされ、素の自分に戻れた。
互いにゴムを装着して行為に及ぶのは、おじさんの匂いをシーツに残さないためだ。
もし、着けずにヤったら、おじさんが帰った後にそのシーツに付いたものをオカズに
ヌく自分がいる。時折装着しているゴムを外して、おじさんを汚したくなる衝動に
駆られるときもある。今の所、想像までで終わらせているが、多分、時間の問題だろう。
そんな変態じみたことを考えてしまうほど、おじさんの存在に餓えていた。
この感情も、一緒に洗い流されたらいいのに、と思うようになったのはいつからだろうか。
まっさらなタオルで水分をふき取り、着替える。
またあの寝室に戻って、おじさんを起こして帰さなければ。
溜息一つ吐いて、寝室へと向かった。
「おじさん、起きて――っ!?」
眠っていたはずのおじさんは既に目覚めていて、僕がバースデープレゼントに先輩達から
貰ったピンクの兎のぬいぐるみを抱きしめていた。
思わず扉の陰に隠れて、こっそりとその様子を覗く。
タオル生地の肌触りの良いぬいぐるみは、僕よりおじさんの方が気に入っていて泊まりに
来る度に抱き枕にして眠っていた。
目覚める度にぬいぐるみを抱きしめ、幸せそうに眠るおじさんが憎らしくて、ワザと
目の前で嫌な顔して消臭剤を吹きつけてやる。
ぬいぐるみの様に、おじさんが僕を抱きしめてくれることは、ない。
たった一度だけ、熱に浮かされていたのか、その手が肩に触れた時だった。
パシッ―――
怖かった。触れた手の熱さが、本当に愛されているような感覚がして、怖かった。
その手を払いのけなければ、間違いなく勘違いしてしまいそうになったから。
愛されてるのだと。
何でそんなことするんですか。やめて下さい、気持ち悪い。そう言って強がれたなら
どんなによかったことか。何かを言いたくても声が震えて泣き出しそうになるから
結局何も言えなかった。
おじさんもまた、少し困ったように、罰が悪そうにぎこちない笑顔を見せると、宙に
浮いたままの手で、そっとシーツを握りしめた。多分、もう二度と触れないように。
「ごめんな」
震えた声でそんなこと言うから、謝ることすら出来なくなってしまった。
それ以来、おじさんが僕を受け止めることはあっても、自分から求めることはしなくなった。
拒否されることはなくても、求めることもなく、縋ることもなく。ただ、淡々と受け入れられる。
あの日、あの瞬間、僕たちの関係がはっきりと決まってしまった。
「お前は可愛いな」
まるで恋人を褒めるように、愛おしそうにぬいぐるみに話しかけている。
「俺は、お前のこと、好きなのかもしれない、な」
多分、一生、その言葉が自分に向けられることはないんだろう。そして、復讐に生きる
自分は受け入れてはいけないんだろう。
「お前になら、何でも言えるのにな」
自分があのぬいぐるみになれたらどんなにいいだろう。例え、話せなくても抱き返す
ことがなくても、好きな人に抱きしめられ、キスされ、愛情を注がれるならそっちの
方がよかった。
人間の自分の口は、開けば嫌みしか言わなくて、手は拒絶することしかできなくて
心は閉ざすことしかできなくて。
それなのに、ただひたすら、その存在を求めているなんて。愛おしくて、どうしようも
なくて、でもどうすることも出来なくて、たどり着いた結果がこのザマだ。
自分の中に芽生えてしまった感情の名前を知っている。
でも、恋の仕方なんて、知らない。
もし、それが分かったとしても、もう自分達の関係は最悪なものになってしまった。
今から愛だの恋いだの言ったところで許されるはずもない。もし――、もし万が一過去に
戻り自分達の関係をリセットすることが出来たとしても、恋の仕方など知らない自分が
この難攻不落な恋を成立させることなど不可能に近い。
だから、その手に縋る前に、こんな醜い感情は消してしまおう。
おじさんは、こんな情けない自分を必要としていない。僕たちは、ただの相棒で
ただ性欲を吐き出す為だけの存在だ。だから、こんな惨めな恋心は存在してはいけない。
コントロールできない感情なら消すしかないのだ。
これ以上ぬいぐるみに嫉妬するのが苦しくて、思わず部屋に入ってしまった。
「おじさん、あれほど人のぬいぐるみ抱き枕にするのやめてくださいって言ってるじゃないですか」
俯いたままのおじさんの背中が一瞬震える。だが、こちらを向くことはない。
「いいじゃねぇか、ぬいぐるみなんだし」
心なしか声が震えているように感じる。
未だこちらを見ないその背にそっと手をおいてさすりたくなったが、ぐっと堪えた。
「僕のです、返してください」
代わりにそのぬいぐるみを掴み、奪い返した。
「おじさん?」
隠すものが無くなったおじさんの表情は、少しだけ目尻と鼻先が赤く染まっていた。
「俺も、シャワー浴びてくっかな」
こちらに顔を見せることなく、するりと脇を通って部屋を後にしてしまった。
手にしたぬいぐるみはおじさんの熱をもらって、少しだけぬくい。
にっこりと笑う刺繍で作られた口元は、さっきおじさんにキスされていた。
「どうすれば、僕もおじさんにキスしてもらえるんですか?」
聞いたところで、ぬいぐるみは答えを教えてくれることもなく、ただ、笑っている。
恋の仕方なんて、知らない
2011.06.04 しゅう
若者だから、恋に臆病なんです