その健やかなるときも 病めるときも
喜びのときも 悲しみのときも
富めるときも 貧しいときも
これを愛し これを敬い これを慰め これを助け
笑わないで、ちゃんと、聞いて
「その命ある限り、真心を尽くすことを・・・」
「お?なんだよバニーちゃん」
ふと口についた独り言を数歩分離れていたこのお節介な先輩は聞き漏らすこともなく
振り返ってこちらに寄って来た。
「なんでもないですよ」
そういって鬱陶しそうに今度はこちらが背を向けた。振り向きざまに、先輩の腰に当てられた
左手のリングが鈍く光った。
多分、初めてそれを填められた時はもっと美しくキラキラと光り輝いていたんだろう。
それこそ、この世界の幸せを象徴するように一点の曇りなく喜びに満ちあふれて。
今はその輝きは少し衰えて鈍っている。
だが、愛情が消えたわけではない。
むしろ愛情があるからこそ、どんなときも片時も肌身離さず、むしろ身体の一部の様になって
きているからこそ、時の流れを受け、傷つき、くすんでいくのだ。
持ち主と共に、時を刻んでいくその指輪が愛情の深さを物語っている。
本当に愛情が無くなったとき、その指輪は外されるのだから。
何気ない仕草をする度に、その鈍い光が目にチラツいて、どうしようもなく重い気分になってしまう。
いっそ言ってしまおうか、「外してください」と。
無理だ。言ってどうなる。嫌だと拒否されれば、その愛情の強さに自分が傷つくだけだし
もしこちらに遠慮して外したとしても、それは形だけのことだ。
心まで、こちらのものになるわけじゃない。
愛する妻子を、そんな簡単人捨てれるほど、この人は薄情じゃない。
世話焼きだからこそ、誰に対しても情を持つ人だ。
自分で勝手に始めたこの飯事のような恋愛感情をこの人に知られるわけにはいかない。
たぶん、この人はなんだかんだ言いながら受け止めて、受け止めたら受け止めたで一人悩むんだ、きっと。
大事なものを増やしたら増やしただけ、この人が傷つくだけだ。
「なんだよ、結婚宣言なんて急に言い出して」
「盗み聞きしないでください」
「盗み聞きしたんじゃなくて聞こえたんだっつの」
「はいはい、そうですか」
小声で呟いていたと思ったが、思ったよりはっきり聞こえてしまっていて恥ずかしくなってきた。
当然だ。独り言で結婚宣言の一節を呟くなんて、どうかしている。
「いいぞー、結婚は!まぁ『結婚は人生の墓場だ』とか言う奴もいるけど、俺はいいもんだと思ってるぜ」
お前さんの結婚式はさぞかし豪華なんだろうな、俺も同僚としてちゃんと呼べよ、なんて笑うその笑顔が
本当に頭にくる。
人の気持ちも知らずに、面白そうに結婚を勧めてくるこの人が憎い。
こちらの気持ちを知られるわけにはいかないが、無知というのはここまで残酷になれるのか、と
嫌気がさしてくる。
いっそこちらも無知を装って傷つけてやろうか。何も知らない振りをして、無理矢理抱いて
傷つけて傷つけて、そうして優しく手を差し伸ばせば、こちらに落ちてこないだろうか。
自分の中に渦巻く黒い感情に飲み込まれそうになる。そんなにも焦っていた自分に少しだけ驚いた。
自分のペースをかき乱すこの人が、憎くて、嫌いで、どうしようもなく好きで、そんな自分が嫌いだ。
いっそ目の前から消えてくれたら、と願ったところで、実際にそうなってしまえば、自分が
どうなるか分かってる。
もう既に真っ暗な未来しか見えない、結果の分かった不毛な感情をいつまで引き連ればいいのか。
「なんだよー眉間に皺寄せて。男前が台無しだぞ」
そういって突如人の眉間に人差し指を押し当てるとグリグリと円を書くようにマッサージしてきた。
至近距離で見せる笑顔に、一瞬息が詰まった。
「なにするんですか」
「人がせっかくマッサージしてやってんのに余計皺寄せんなよ」
その手を振り払ってみるものの、それまで自分の中で疼いていたドス黒い感情が一瞬で消え去っていた。
あぁ、自分も案外単純なのかもしれない。
ちぇっ、可愛くねーの、とふてくされているこの年上のオジサンがどうしてこんなに愛おしく
感じるのか、答えがあるなら教えて欲しい。
もう、自分でも何がなんだか分からなくなってきた。
諦めて、欲しがって、傷つけたくて、守りたくて、めちゃくちゃにしたくて、でも
手を触れるのすら怖くて・・・
「悩み事があるんだったら、オジサンに相談しなさい。バニーちゃんより人生経験豊富なんだから」
「何でも?」
この地獄の迷路のような感情ですらも?
「あぁ、何だって答えてやるぜ」
「だったら・・・」
もういい。自分で答えが出ないなら、相手に出してもらうのも手だ。
「だったら、僕は貴方のことが好きみたいなんですが、どうすればいいですか!?」
さっきまで先輩風吹かせて自信満々に笑っていた顔が固まる。
一瞬・・・いや、長い長い沈黙が二人を包み、その沈黙は彼の爆笑によって破られた。
「ちょ・・・ま・・・お前さん・・・俺のこと好きって・・・っぶ!・・・はっはっはっはっ!」
そういって、それまで人が真剣に悩んでいることをさも冗談の様に受け取ってゲラゲラと笑う
その姿を見ていると、徐々に怒りがこみ上げてきた。
人を勝手にかき乱して、振り回して、世話焼いておきながら、人の好意を笑いやがって・・・
「笑わないで、ちゃんと聞いてください!」
大嫌いなそのリングが輝く左手を掴んで引き寄せると、笑ったままの形の唇を噛みつくように塞いだ。
「僕は本気ですから」
そう宣言すれば、口角が一瞬ひきつったの見て、今度はこっちが笑ってやった。
2011.05.19 しゅう
DTちっくな兎が既婚者子持ちしかもおじさんなんていうハードル高すぎな人を
好きになったらもう開き直るしかねぇな、と思って。